刊行のことば

現代社会に生きている私たちは、さまざまな悩みを抱えています。
家庭内における、親子、夫婦、嫁姑の問題、兄弟の争い、恋愛問題、学校や社会での人間関係、そしてそのような問題に関連する出社拒否、不登校、家庭内暴力、引きこもり、さらには病気、アルコール依存、摂食障害等々です。
その他にも自分の生き方、進路、人生の目的について真剣に悩んでいる人もいます。
この冊子は、それらさまざまな悩みをお持ちの方々に集中内観をおすすめし、一刻もはやく悩みから解放されていただきたいとの願いで書かれました。
お読みいただければ幸いです。
posted by ゆき at 15:57 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まえがき

この二十数年間、私は多くの方々に内観を勧め、五百人以上の人が内観を体験されました。
内観に行った動機は様々ですが、緊急の悩みを抱えて内観した人達もたくさんいます。
その人達から、内観終了後の感想を聞かせていただき、その後も親しくおつきあいさせていただいてきました。
それらの人々に接するごとに、内観が如何に悩みの解決に絶大な力を発揮し、その後の人生の糧になっていくかということを目のあたりにさせていただいております。
本冊子をきっかけに、一人でも多くの方が内観を体験していただければこれに勝る喜びはありません。
posted by ゆき at 15:54 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1. 時間を止めて

私たちは、自分の人生を止めて自分自身を見つめる時間をほとんど持っていません。
自分が何のために生まれ、どこからきて、どこに向かっているのかもわからずに忙しく動いています。
行き先を考える暇もないし、行き先がわかっていないということにすら気づいていない場合が多いのです。
ひたすら先を急いでいて道端のタンポポにも気がつかないというような生活になっていないでしょうか。

そして、それが悩みの根本になっている場合が多いようです。
目の前のことで頭がいっぱいで、視野が狭くなっているのです。
事業に失敗したり、受験に失敗したりして自殺をする人がいますが、その人にとっては、事業の成功か死か、合格か死かというただ二つの選択しかなくなってしまっているのです。

そのような時に自分の人生の全体をふりかえり、今までまわりの方がどのようなことをしてくださった結果今の自分が存在するのかが本当にわかれば、もっと広い視野に立って目の前の問題を見ることができるようになります。
そうすれば、そのような狭い選択にはならないでしょう。

ですから、ちょっと時間を止めて自分の過去から現在までをふりかえり、今まで自分がどういう人間であったのかということをきちんと見つめてみるということが大事ではないかと思います。

ただし、私たちが過去をふりかえるときは、自分が当時、興味をもって見たものや、そのとき感じた感情をもう一度たどっているだけということが多いのです。
それでは、あくまでも自分の側から見たふりかえり方にしかなりません。
私たちの人生を船に乗って川上から川下へ下っていく旅に例えると、私たちが通常過去をふりかえるのは、船の上から自分の興味を持って見たことを、その時の感情と共にふりかえっているようなものです。
あそこはきれいだった、あの流れを進むのは楽しかった、あの場所はちょっと危なくて怖かった等、自分にとって印象深かったことを思い出していきます。
そのようなものの見方ではなくて、船に乗って下って行く自分を上空や岸から撮り続けたビデオを初めから見なおしてみるというような見方の方が、自分の姿がはっきりとわかってくるでしょう。
どういう場面でどこに座って何をしていたか、というようなことを冷静に観察することが出来るからです。
そのように、他の角度から見て自分がどうであったかということを、過去から現在まで冷静にふりかえって見ることが大事なのではないでしょうか。

人生の時間を止めて、過去から現在までを別の角度からふりかえる。
それがこれからご紹介する「内観」です。
posted by ゆき at 14:49 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2. 先入観からの解放

私たちは先入観でものを見ていることが多いのです。
空は青い、黒板は黒いというのは私たちの先入観であって、事実ではありません。
空の色が本当に私たちがイメージするような青さなのは年に数回しかありません。
白みがかった色をしていることが多いですし、夕やけもあります。夜になればまた違う色です。
それにもかかわらず私たちは空は青い、青くなければ空ではないというような思い方をして、むしろこちらの先入観に相手を合わせようとしています。
自分が勝手につけたタイトル・評価でまわりを見、こちらの期待とのギャップだけを見て、そして相手がこちらの先入観や期待に合わないと怒るのです。
母親のくせに、父親のくせに、子供のくせに、夫のくせに、妻のくせに、兄貴のくせに、妹のくせに、社長のくせに、上司のくせに、部下のくせに、先生のくせに
・・・・・・皆同じです。
相手を自分を満足させる道具としてしか見ていないのです。

そしていったん相手を自分の基準で評価してしまうと、その部分しか見えないことが多いのです。
いったん嫌いになると、その人が自分に親切にしてくれても、何かしていただいたとは思えないわけです。
いったん意地悪な人だと思うと、その人の意地悪なところだけを探すのです。

第一、はじめの評価がすでに自己中心的なのです。
相手が自分に親切だといい人だと思ったり、その人が他の人にもっと親切にしているといやな奴だと思ったり、遠足の日に雨が降ると嫌がるけど、一か月も雨が降らないと雨乞いをする。
私たちはそのようなものの見方をしがちです。

要するに、常に自分の都合で、自分自身のフィルターを通してものが見えており、それにともなう感情が自分の記憶として残っていくのです。

これは自分自身を見るときも同じです。
私もよくやりますが、約束に時間に遅れると、「すみません。道が混んでいたもので」と言い訳する。
でも、私の住んでいる東京の道路はいつも混んでいます。
「いやあ、ラッシュでしたので」というのも本当は言い訳にはなりません。
ラッシュの時間はいつも同じです。それを計算して家を出れば遅くならずにすんだはずですし、ラッシュアワーだということに家を出てから気づいたとすればそれはこちらの不注意と言わざるを得ません。

仮に、交通事故で電車が止まってしまって遅れたとしても、途中で事故がありましてと言えば「それは大変でしたね」と同情してもらえます。
しかし、本当はそのことは、やきもきしながら待っていた人には関係ないのです。
何か起こったのだろうか、待ち合わせ場所を間違えたのだろうか等と心配しながら待っていなければならなかった人は実はもっと大変だったという事実は変わりません。
ところが私たちはこのことを見逃しがちです。

このように、私たちは、自分がなんらかの形で相手に迷惑をかけても、常に自分なりの言い訳を持っていることが多いのです。
「ちょっと、出がけに電話が鳴りまして」「いやー最近忙しくて」「ちょっとこのところ過労気味で」「子供が受験なものですから」・・・・・・。

だから、相手から見た自分は、自分が勝手に甘く評価している自分とは、かなりギャップがあるわけです。
そのギャップに苦しんで、人は自分をわかってくれないと言ったりするのですが、本当は相手はかなりこちらのことをわかっているのです。
人からみれば一目であの人はちょっと頑固そうだなとか暗いなとわかるのですが、本人だけが気がついていないわけです。
それなのに、人が自分を理解してくれないといってストレスをためたり、そのストレスから病気になったりするのです。
ですから別の角度から、いつもの、自分の感情中心のものの見方とは違った見方で自分を見てみることが大事になってくるのです。

内観は、そのような一方的なものの見方から離れて別の角度から自分を見る方法です。
内観とは文字通り「内を観る」ことであり「内面の観察」です。
私たちは通常は自分の都合や価値観で外を見ていますから、「外観」をしているのです。「外観」をしているから自分が見えてこないのです。
ですから、そのようなものの見方から離れて自分を見つめる「内観」が大切になってくるのです。
要するに私たちにとって内観が大切なのは、私たちが通常「内観」をしないまま人生をすごしているからです。
だから一度時間をとって、自分自身をふりかえってみるということが大事なのではないかと思います。
posted by ゆき at 14:48 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3. 三つの質問

それでは内観のやり方をご紹介しましょう。

内観は自分がまわりの人に対してどうだったかということを、その人から「していただいたこと」「お返ししたこと」「迷惑をかけたこと」という三つの質問で調べます。

何もしてもらっていないのに「お返し」というのはおかしいと思う人は、「してさしあげたこと」でもいいでしょう。

まわりの人というのは、自分の最も身近な人、例えば母親、父親、祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供等です。
もちろん友人や恋人、仕事関係の人に対して調べてもいいでしょう。
今、特に人間関係で悩んでいる人に対して調べることも重要です。

それをその人との出会いから現在まで、あるいは別れまでを、過去から現在にさかのぼって調べていくのです。

普通は初めに調べるのは、お母さんに対する自分です。
母親は大抵の場合、子供のときに最も身近にいてお世話になった人だからです。
お母さんがその頃同居していなかったという人はおばあさん、あるいはお父さん、お姉さんといった人から始めます。
そして期間は例えば生まれてから小学校三年生まで、小学校卒業まで、中学時代、20才まで、25才まで、30才まで・・・・・・というふうに調べていきます。

ですから、普通は、生まれてから小学校低学年までに

1. 母親からしていただいたこと

2. 母親にお返ししたこと

3. 母親に迷惑をかけたこと

から初めます。

この三つの質問に1時間から2時間取り組んで、具体的な答えを探すのです。
1〜2時間後、面接の先生が内観をしている人のところに来て、今の時間どのようなことを調べ、思い出したかを尋ね、内観者はこれら三つの質問について、思い出したことを報告します。
すると面接者はお礼を言って、次にいつの時代を調べるかを聞き、あるいはいつからいつまでを調べてくださいと言って去っていきます。
普通は、次は小学校六年生までの期間です。
そしてまた1〜2時間程したら面接者が内観者を訪ねて、こんどはどのようなことを思い出したかを尋ねます。
このようにして一週間の間、ずっと三つの質問に取り組みながら、母親、父親等に対しての自分を調べていくのです。

それではこの三つの質問の意味を考えてみましょう。
posted by ゆき at 14:47 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3.-1 していただいたこと

私たちが通常考えているのは、「してもらえなかったこと」が多いのです。
お母さんが家にいなかった、ごはんを作ってくれなかった、お父さんが私たちをおいて出ていってしまった、私の親は早く死んでしまった等、自分が期待どおりにしてもらえなかったこと、あるいは失ったと思っていることに心が集中して、自分がしていただいたこと、あるいは得ていることに気がついていないことが多いわけです。

「してもらえなかったこと」というのはこちらの思い込みの世界です。
アメリカに留学させてもらえなかったということで親を恨んでいる人がいます。
家を建ててもらわなかったとか、世界一周旅行をさせてくれなかったといい始めたらきりがありません。
それはこちらが頭の中で勝手に作った期待を親が満たしてくれなかった、こちらの期待通りにやってくれなかったということであって、すべてこちらの頭の中での出来事です。
お弁当を作ってくれなかったとか朝起こしてくれなかったというのも全く変りません。
内観は自分の頭の中の出来事を調べるのではなくて、実際に起こった事実を調べるのです。

お母さんからしていただいたことというのを調べても、特別のことはありませんと言う人が多いのですが、内観は「特別のこと」を調べるのではありません。
例えば、お母さんからしてもらったことは何ですかと言われて、朝起こしてもらいましたとか食事を作ってもらいましたということを言う人は非常に少ない。
風邪をひいて熱を出した時に夜寝ずの看病をしてくださったというようなことは、してもらったこととして覚えているのですが、ご飯をよそってくれたとか、お味噌汁を作ってもらったというのは見逃してしまっています。
よそのおばさんが一回だけ食事を作ってくれたらお礼を言うのに、母親に食事を作ってもらってもあたりまえのように思っているので作ってもらっていること自体に気づきません。

しかし、一日三回食事を用意していただきますと、それは一年間で一千食、10年間で一万食を越えます。
雨の日も風の日も、買い物に出かけて八百屋さんや魚屋さん、スーパーマーケット等を回って、いろいろなものをお金を出して買い、その相当重い品物を家まで運び、洗ったり切ったりした後、煮たり、焼いたり、揚げたりして料理を作ってお皿に乗せ、一方で御飯を炊いてお茶碗に盛り、お湯を沸かしてお茶を入れてそれを湯飲みにつぐ、そうやって用意したおかずと御飯と飲み物をお盆に乗せて食卓に運んで並べ、さらに箸も食卓に並べていく。
子供が食べ終わって遊びに行ったり、勉強部屋にこもると、残された食器をまたお盆に乗せて台所に運び、それを洗って拭いてもとの食器棚に戻していく。
これを一万回というのは相当時間も手間もかかるのですが、これを「特別なこと」ではないと思って「していただいたこと」にいれてなかったりするのです。
「私のお母さんは私が10才の時に家を出て行ってしまいました。だから私はお母さんには何の世話にもなっていません。」と言う方がいますが、これはかなり事実に反します。
家を出るまではお母さんが食事を作っていてくれたならば、すでにお母さんは私のために一万回の食事の用意をしてくれたということになります。
それにもかかわらず何もしてもらってないと思うわけです。
だから改めてきちんと過去の事実を見てみる必要があるのです。
posted by ゆき at 14:46 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3.-2 お返ししたこと

お返ししたこと、あるいはしてさしあげたこと、これも非常に厳しい質問です。
私たちはしてもらうことばかり考えていて、あまりしてあげるということを考えていない場合が多いのです。
例えば、自分がお母さんに何をしてあげたかということはなかなか出てきません。

私はあまり手がかからなかったという人がいますが、自分のことは自分でしたというのはしてあげたことにはなりません。
第一、自分の服を自分で着られるようになる前は、着せてもらっていたわけですし、自分で着れるように教えていただいてもいるわけです。
手がかからないように育てるには相当手がかかっているのです。

「してあげた」こととして、結構自分は成績が良かったとか、運動会で一等賞になって喜ばせたとか、こういうことを言う人がたくさんいます。
しかしこれはお母さんのために勉強したわけではないし、お母さんのために走ったわけでもありません。
みんなに負けたくないと思って走ったら一等になって、お母さんが我がことのように喜んでくださったわけです。
お母さんにいいことがあったときに心から喜んであげれば、それはしてあげたことになると思いますが、お母さんが我がことのように喜んでくださったというのはしていただいたことになってしまいます。
あくまでも、お母さんのためにしてさしあげたことでなければ、たまたま自分にいいことがあったというだけでは、してあげたということにはなりません。

道端にきれいな小石があったので、それを拾って帰ってお母さんにプレゼントしようとしたら怒られたというような場合もあるでしょうが、お母さんを喜ばせようと思って石を持っていってあげたならば、これはしてさしあげたことになります。
お母さんが喜んだことだけがしてあげたことではないのです。
それは逆にこちらが喜んだことだけが、してもらったことでないと同じです。
例えば、歯医者さんに連れて行ってもらったことを喜ぶ人はあまりいません。逆に恨んでいる人もいます。
しかし、これはやはりこちらのことを思って、それ以上痛くならないようにと一生懸命お母さんが連れて行ってくださったわけです。
posted by ゆき at 14:45 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3.-3 迷惑をかけたこと

次は「迷惑をかけたこと」ですが、私たちは「迷惑をかけられたこと」を覚えていることが多いのです。
自分が迷惑をかけられたと思っている、あるいは自分が傷ついたというような記憶はなかなか忘れないのですが、自分が迷惑をかけたということは、かけている時点で気がついていない、あるいは、気がついてもすぐに忘れてしまったりするわけです。
そして、かけられたことを20年、30年と覚えていて、自分が被害者になってしまい、私が不幸せなのはあの人のせいだというものの見方になってしまったりします。
それでは、自分の人生を主体的に生きているとは言えません。
ですから、改めて自分はどういう迷惑をかけたかということを考えてみる。
これが三つ目の質問になります。

内観とは何かということを一言で言えば、自分が他の人から、していただいたこと、してあげたこと、迷惑をかけたこと、この三つの質問に取り組んで自分を見つめる作業です。
もっとも、調べる対象は必ずしも人とは限りません。
飼い犬に対して内観をして、自分が如何に自分勝手に犬と接してきたかに気づいた人もいます。
自分が寂しい時は寝ている犬を起こして遊び相手になってもらい、機嫌の悪いときには犬にあたったというのです。

内観では初めはお母さん、あるいはお母さんがわりで身の回りの世話をしてくださった人に対して、過去から現在まで、あるいはその方が亡くなるまでの自分の3〜5年位ずつの期間に区切って調べます。
それが終わったらお父さんに対してどうであったか、あるいは祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供に対してどうであったか、学校の先生、会社の上司、同僚に対してはどうかというように考えていくのです。
posted by ゆき at 14:44 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

4. 内観で思い出すこと

それでは内観で具体的にどのようなことを思い出すのでしょうか。
内観で思い出すことは例えれば次のようなことです。

小学校低学年まで、母に対して、「していただいたことは、運動会を見に来てくれました。朝早く起きて、その日のお弁当を作ってくれました。
お返しは、よく肩をたたいてあげました。
迷惑をかけたことは、幼稚園のときおたふく風邪にかかり一週間くらい治らず、心配させました。」

これは初日です。初めはなかなか集中できませんし、思い出すことも表面的なことになります。
全く何も思い出せないことも少なくありません。
しかし、三〜四日目になると、だんだんと細かいことを思い出してきます。
だから一週間という時間が必要なのです。

お母さん、お父さんとひととおりの内観を終わり、三日目に再びお母さんに対して調べている方の例です。

「幼稚園の運動会に来てくれました。
遠足の日の朝、寒いといけないので長袖を着せてくれました。
学芸会で着る白いセーター、タイツを仕事から帰って来てまた買いに行ってくれました。
お返しは、幼稚園で作った紙粘土のブローチを母にプレゼントしました。
母の絵を書いてあげました。
迷惑は、夜中にトイレに行きたくて目が覚めた時、母がぐっすり寝ているにもかかわらず、よく起こしてしまいました。」

さらに続けるといろいろなことを思い出します。

「していただいたことは、爪切り用のはさみで爪を切ってもらったことです。
幼稚園の頃『私のワンピース』というお気に入りの絵本があり、よく読んでもらっていました。
風邪をひいて、駅前のK小児科に連れて行ってくれたことがあります。
血液型の検査を受けるため、病院に連れて行ってもらいました。
注射で我慢して泣かなかったので母がほめてくれました。」
このようにしてずっと続いていきます。

さらに詳しく調べると「就学時検診の日、仕事を休んで一緒に来てくれました」
仕事を休んでというのが入っています。

「小学校に入学する前、一人で学校に行けるように、小学校まで通学路を通っていってくれたことがあります。」
初めに学校に行く練習をさせてくださったわけです。

「補助輪付きの自転車を買ってもらいました。私は補助輪付きの自転車に乗り母は歩きで家まで連れて帰ってくれました。」
とても細かいことに気づいています。

「幼稚園の運動会で親のリレーに参加してくれました。
絵本を買いに行った帰り、お菓子屋さんでお団子を食べさせてくれました。母の分のお団子を1本分けてくれました。
幼稚園のプールで浮き輪の上に私を座らせて遊ばせてくれました。
夏に空気入れで幼児用のプールを膨らませ、家の庭でプールに入れて遊ばせてくれました。そのとき青と白の水着を着せてもらいました。
台風で夜中凄い風の音がしていて怖くなり、母の布団に入れてもらいました。」
お母さんの布団の温もりがもう感じられているようです。

内観研修所では、このようにして一人で小学校低学年までの自分を見つめ、面接にいらした先生に思い出したことを報告します。一回の面接は三分程度です。
次は小学校高学年、中学時代というように三〜五年くらいの区切りで調べていき、現在まで、あるいは相手の方が亡くなるまでの自分を調べていくのです。
それが終わったら、今度は次の人に対して、また子供の頃からさかのぼって三つの質問で自分を調べていきます。
このようにして一週間の間、くりかえし、くりかえし自分を見つめていくのです。
面接者の役割は、ただ内観者が調べた内容を丁重に聞くというだけで、内容についての評価やコメントはしません。
悩んでいる問題に対するアドバイスもしません。
ですから内観中に気づいたことはすべて内観者が自分で気づいたことであって、誰に教わったことでもありませんので、しっかりと自分のものになるのです。
posted by ゆき at 14:43 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

5. 悩みの解決

内観の意味とやり方についてお話ししてまいりましたが、では内観で何が起こり、なぜ悩みが解決するのかということを簡単にお話しさせていただきたいと思います。

内観によって気づくこと、内観によって得られることは、人によって全くちがいます。
ですから、内観で何を得ることができるかは、やってみなくてはわかりません。

しかし、具体的に何が得られ、何が変わるかは別として、内観をするとどういうことが起こるかということは、ある程度ご説明できると思います。

内観をすると、まず、あらゆる意味で、とらわれから解放されます。

過去の事実を認めず、あれはなかったことにしたいと思っている人がいます。
しかし、過去を否定しているということは、その結果である現在の自分を否定することになります。
内観でその事実を別の角度から見ることは、事実を受け入れることを容易にします。
そしてその事実を受け入れることによって、過去から解放されていくのです。

そういう意味では、恨みもとらわれの一種でしょう。
何かが自分の思うようにならなかったときに相手を恨み、自分が苦しむのです。
内観をすることによって、恨みから解放される人はたくさんいます。
少なくとも、起こった事実を認めることができるようになるのです。
人を恨むというのは幸せな状態ではありません。
相手が恨まれて当然の人であるということを主張するよりも、自分が恨みから解放されて幸せになる方が自分のためではないでしょうか。
そしてそれは、精神的、肉体的健康にもつながるでしょう。

相手を変えようとして悩んでいる人がいます。
自分の基準で相手を評価し、相手を自分の基準に合わせようとして苦しむのです。
思いやりのない人に向かって、思いやりがないからけしからんというのは、非常に思いやりがないのです。
私達は、目が見えない人がいれば手をさしのべます。
目が見えないからけしからんとは思いません。
しかし、思いやりのない人に対しては、あの人は思いやりがないといって批判します。
それは目が見えない人を目が見えないからけしからんといって批判しているのと変わりありません。
犬に向かって猫でないからけしからんといっているようなものです。

お母さんがアルコール依存症で、してもらったことが何も思い出せないという方がドイツにおられました。
しかし四日目5日目になってやっと思い出したのは、お母さんが酔っ払いながら、食事を作っていた姿です。
その姿をきっかけに、次から次へとお母さんにしていただいたことが思い出されてきました。
酔っ払っていないお母さんにしてもらったことを探すからなかなか見つからなかったのです。
酔っ払っていながらいろいろなことをしてもらい、育て上げてもらったのです。
その方が一週間の内観を終わって気づいたことは、私の母親はアルコール依存症であったということです。
そんなことは初めから理屈ではわかっているのですが、依存症の母が私を二〇年間育ててくれたということに初めて本当に気づいたのです。
はじめて本当のお母さんに出会えたといってもいいでしょう。

自分自身を認めていない場合もあります。
私はもっとましなはずだということにとらわれて、本当の自分を見ていないのです。
その結果自己嫌悪になったり、悪い意味での罪悪感に陥ったり、劣等感を持ったりするわけですが、事実存在しない「もっとましな」自分を基準においたまま、本当の自分を少しだけかいま見て、なおかつそれを受け入れない時にそのような状態になるわけです。
ところが内観をすると、事実存在する自分が否定できない程はっきりと見えてきますので、その結果、もっとましなはずだという、空想の自分が消えていくわけです。
それによって、自分と、自分はこうであるはずだというものとの差がなくなっていきますから、自己嫌悪とか、劣等感とか、悪い意味での罪悪感とかの、「感」というものから解放されるわけです。

要するに内観で事実を見るということは、それらのとらわれから解放されて自由になるということです。

そして、内観で自分がすでに得ているものを集めれば集めるほど、幸せになっていきます。
ドイツのある精神分析家が、精神分析を受けても病気は治るかもしれないが幸せにはならない、だから内観を取り入れていかないと精神分析に未来はないと言われていますが、内観は初めから、幸せになる方向でものを考えていると言ってもいいと思います。
ですから、一言で言えば、内観は「幸せへの道」であると言えるでしょう。

今、自分が幸せかどうかということは、本人が決めることですから、それは本人が今を幸せと感じるかどうかという問題になります。
内観でしていただいたことを調べることは、幸せの証拠を集めていることにほかなりません。だから内観は、「幸せの宝探し」です。
内観をすることによって、内観をした本人が幸せになっていく。それが内観です。

「山のあなた」というカール・ブッセの詩があります、「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う、ああ我、人ととめゆきて、涙さしぐみ帰り来ぬ。山のあなたのなお遠く、幸い住むと人の言う」というものです。
幸せを求めて遠くまで行ったけれども、涙ながらに帰ってきた。幸せはもっと遠くにあるのだと言って、結局この人は幸せになっていないわけです。
これに対して、中国の詩で、こういう詩があります。
「尽日春を尋ねて春を見ず」一日中春を尋ねたけれども見つからなかった。
「草履踏み遍しろうとうの雲」わらじを一足履き潰して帰ってきた、そこまでは同じです。
「帰路たまたま過ぐ梅花の下」帰ってきたらたまたま梅の花の下を通ったのです。自分の家の庭だったのかも知れません。
「春は枝頭にあってすでに十分」という歌です。なあんだ、春はここにあったじゃないかと気づいたのです。
状況は同じ、やったことも同じだけれども結果は全然違うわけです。
この自分の家の庭の枝頭の梅一輪をさがす、気づいていく、これが内観であると考えていいと思います。
自分が今のままですでに幸せであるということに気づく作業です。

内観をすると、内観をした本人が幸せになるだけではありません。
一人の人が内観をすると周りに非常に大きな影響があります。
自分が幸せになればまわりの人を幸せにしていくこともできます。
自分が不幸せで暗い顔をしていたり、不満でいっぱいでまわりにあたっていたりしたら、まわりの人を不快にすることになります。

また、何かをひきずったままでいると、それが自分の後に続くものに引き継がれていくこともあるのです。

ある女性の方は、子供の頃学校から帰るとお母さんがすぐ横に座って宿題させられた、お習字の練習とか色々させられてとっても嫌だったと言います。
成績は一番だったし、お習字はいつも張り出されていたし、ソロバンは学校で一番だったのですが、お母さんを恨んでいました。
自分の子にはこういう思いはさせまいと思い、自分の娘さんには何もしなかったら、娘さんの小学校の先生から呼び出されて、あなたのお嬢さんは学校の授業についていけないと言われたそうです。
このお嬢さんが大きくなって、母親になったときに、今度は、うちのお母さんは何もしてくれなかったと言って、一生懸命子供の勉強を見るのではないかと思います。
そうすると、代々これが続いていく。だれも本当に子供のためにはやっていないわけです。
どこかで誰かがその連鎖を切らないと、それがずっと続いていくことになります。
ですから、一人の人が内観をするということは、周りに、そして後の世代までにも非常に大きな影響を及ぼすといえるでしょう。

以上述べてまいりましたように、内観をすることによって、私たちは多くの貴重な「気づき」を得ることができます。
そして現在の自分や自分のまわりの状況を広く深く洞察できるようになります。
それらの気づきや洞察力によって、悩みをもたらしている今の状況をこれまでとはちがう角度からとらえることがきるようになり、結果的にさまざまな悩みから解放されていくのです。

内観によって悩みが解決するだけでなく、多くの心因性の病気が治ることがあります。
また、内観はアルコール依存症や摂食障害の治療にも効果を発揮します。
そのため、内観は心理療法としても注目を集め、「内観療法」として使われています。

現在では日本内観学会が毎年一回開催され、内観による治療の効果などについて研究が重ねられてきています。
一九九一年から三年に一回内観国際会議が開かれるようにもなりました。
今では欧米を中心に諸外国で一週間の内観研修が開催されるようになり、欧米の心理学者や精神科のお医者さんも内観に注目しています。

欧米で伝統的に行われている心理療法や精神療法はどちらかというと過去の「感情」に焦点をあわせ、しかも迷惑をかけられたことを強調するのに対し、内観は過去の「事実」に焦点を合わせ、していただいたことや迷惑をかけたことを調べていくため、欧米の心理療法の限界を超えるものとして注目されているのです。
posted by ゆき at 14:42 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

6. 内観をした人々

内観をするきっかけは人によってさまざまです。
内観は本来自分を見つめるために行うものですが、目の前の悩みを解決するために内観をする人もたくさんいます。
きっかけが何であろうと、内観に出合えるということは幸せなことだと思います。

もっとも、内観をしても内観前に予想したような形で問題が解決するとは限りません。
悩んでいる時は目の前のことが自分中心のものの見方でしか見えないことが多いようですが、内観をしてものの見方の根本が変わった結果、それまで悩みと思っていたことが解決すべき一つの問題として見えてくると同時に、その問題に対する見方が変わり、思っても見なかった形で解決することも多いのです。

ここで少し、内観をした方々が内観後にどうなったかという例をお話ししたいと思います。
はじめに人間関係の悩みで内観した方々のお話です。

彼女にふられて失意のうちに内観にいき、彼女との四年間を振り返ったとき、自分が彼女にふられたのは当然だと納得できた方がいます。
つきあい始めてから年を追うにしたがって、してあげたことがだんだん少なくなり、迷惑をかけたことが増えてきたからです。
余談ですが、内観後、今までと全くちがった彼を見て、彼女は再び彼のもとに戻りました。

三年前の失恋から立ち直れない女子学生がいました。
自分がふられたということに傷ついて、その悲しみの中にいた三年間でした。
しかし内観をして、彼のおかげで自分が今こうやって大学生でいられることがわかり、彼に感謝することができました。
内観を終わった彼女は、遠くに見える山を見て、「きれいですねえ」と見とれていました。
内観前もその山はあったのですが、全く目に入らなかったのです。
内観後しばらくしてお会いした時、世の中には素敵な男性がたくさんいることがわかりましたと言われていました。
その後結婚して今は幸せに暮らしておられます。

お父さんと、高校三年生の時から三年間口をきいていない女性がいました。
少しは口をきいてあげてもいい気もするけれど、お父さんも口下手だから会話にならないといっていました。
しかし、内観から帰ってしばらくしたら、お父さんの方から話しかけてくれるようになったそうです。
やはり今まで自分がお父さんを拒否していたんだということがわかったと言われていました。
内観後はよく二人で食事にいくようになったそうです。

お兄さんといがみ合っていた女性がいました。
内観をして、お母さんの気持ちを思い、自分の子ども二人がいつもいがみ合っているのをずっと見てきたお母さんがどんなに悲しかったろうと思ったそうです。
内観後は兄妹仲良く暮らしているということでした。

二階で寝たきりのお祖母さんにもう二年間会っていないという人もいました。
お祖母さんに対する内観をして、お祖母さんがどんなにか淋しかっただろうと涙を流しました。
内観後、ちょくちょくお祖母さんの所に顔を出すようになったそうです。
子どもの頃からずっとかわいがってくれていたお祖母さんは心から喜んでくれました。
お祖母ちゃんが生きているうちに気がついてよかったと言われていました。

ご夫婦で内観にいかれて、その後のお二人の関係が、前とは違うものになった方々もたくさんいます。
あの時内観をしていてよかった、という声をよく聞きます。

このように、内観をすると人間関係は確実によくなるようです。
また、内観をして思いもかけない結果が得られることもよくあります。

ある高校野球のチームは、レギュラー全員が内観をし、甲子園でベスト4になりました。
監督さんの話では、もともと甲子園に出場できるようなチームではなかったけれど、内観後は、教わったことを自己流ではなく、そのまま吸収できるようになり、それぞれが自分の役割をきちんと果たせるようになって、団体競技としてのチームワークもずっとよくなったとのことです。

大学のスキー部の女子選手で、スキーが面白くなくなり、もうやめようかと思いつつ内観に行った方がいます。
内観後は滑ることが楽しくなり、大会の回転競技で優勝したそうです。
「ポールが見えるようになった」と言われていました。

バイオリニストで、それまでは一生懸命楽譜を追っていたけれど、内観をしてバッハの心がわかり、それが楽譜を通して伝わってくるようになったという人がいました。
指導教授から、すっかり変わったといって誉められたそうです。

チェンバリストで内観をしたら音が変わったという方もいます。

ソプラノ歌手の方は、それまでは何とか上手に歌おうと思っていたのですが、内観後のリサイタルで、自分の歌を聴きにきてくださる方々に感謝しながら歌ったら、今までになかったような素晴らしいコンサートになったと言われていました。

病気を治そうとして内観に来られる方もいます。
内観をして病気が治るとは限りませんが、病気を受け入れることができるようになり、ものの見方が変わってストレスをためることも少なくなるということは言えると思います。
そして、それが結果的に心と体を癒していくことにつながるのです。

心因性の病気も、自分中心のものの見方をしてストレスをためた結果おこることが多いので、内観がプラスの方向に働くことになります。

過去の出来事をひきずっていることも精神衛生上よくありません。
過去を受け入れず、他人を恨み、未来の心配ばかりをしていては、ストレスがたまるばかりでしょう。
内観によって、これらのとらわれから解放されることが、心や体によい影響を与えることは言うまでもありません。

アルコール依存症でも、自分が回りにかけている迷惑がどのようなものであるかを心から理解することが、立ち直りの第一歩になると思われます。
その場合、ご家族の方々が内観をすることも大切です。
家族の対応が本人をアルコールに追いやっている場合があるかもしれないからです。
病気にしても障害にしても、まわりの方々の心が安定していることが、本人によい影響を与えることはまちがいありません。

私は内観をして帰った人のまわりにいる方々の話を聞くことが多いのですが、内観をすると本人には気がつかない変化もあります。

ある女性は、父親への恨みが内観によって消えた結果、それまで会議の席で男性の意見には必ずくってかかっていたのが、男性の意見にも耳をも傾けることができるようになったそうです。
ご本人はそのことに気がついていませんでしたが、同僚の女性が言われていました。
「あの人は、内観前は下を見て歩いていたけれど、今は上を向いて歩いてる」と友人に言われた方もあります。

息子が初めて「ただいま」と言ったと驚いているお母さんもいました。

このように、内観をした当人も気がつかないような変化があることも多いようです。

以上、内観をした方々のその後を少しご紹介しました。
内観をして必ずこうなるとは限りません。
人によって内観の結果は皆違います。
しかし、ここにあげたような方向での人生の変化があるということは言えるのではないかと思います。
新しい人生が開けるといってよいでしょう。
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7. 内観 Q&A

ここまで内観の説明をしてきましたが、内観に関して、次のような質問をよく受けますので、お答えします。



Q1 いつも反省をしているので内観をする必要がない。

私はいつも反省しているし日記もつけているから、内観のようなことはやっていますという方がいます。
しかし反省と内観は違います。特別に深い反省は別として、普通私たちが反省という場合は、何か結果がまずかったときにどこが悪かったかといって反省することが多いのです。しかし内観の「迷惑をかけたこと」というのは、結果が良い悪いの問題ではありません。
一年間受験勉強を一生懸命しましたというのもまわり中に迷惑をかけています。夜中まで起きている。家の手伝いもしない。いつもイライラしている。家族はテレビの音も加減したり、見たいテレビも見ないで我慢している。その結果、合格すると受かってやったみたいに威張りくさる。不合格だと、自分が悲劇の主人公みたいに一人で落ち込んでいる。
この場合、勉強ばかりやっていたということ自体はあまり「反省」の対象にはなりませんので、やはり「内観」をしてみなければ気がつかないことがあるのです。
そのように、結果に関係なくどういう迷惑をかけたかという厳しい質問が内観の質問なのです。



Q2 一週間では何もわからないだろう

一週間位で何がわかるかと思われる方があるかもしれませんが、一週間集中的に調べると正味七十時間を越えます。私たちは普段の生活の中で、自分の人生を他の角度から七十時間調べるということはやっていません。これは週一回一時間ずつ行ったとすると一年以上かかる時間です。ですから一週間というのは一応十分な時間と言っていいと思います。



Q3 一週間では長すぎる

一週間は長すぎる、何故そんなに時間が必要なのだと言う方もいますが、自分の人生の全部を調べ直すわけですから、一週間が長すぎるということはありません。人生を止めて五日、六日とたつと、子供の頃の三輪車の色まで思い出すことがありますが、これはなかなか一日目には思い出しません。それに集中内観はさしあたって一週間で終わりです。内観をやってみようか、どうしようかと迷っている間に一週間は経ってしまいます。始めてしまえば一週間後にはすべて終わってしまっているのですから、むしろ短いと言っていいでしょう。



Q4 過去はふりかえりたくない

思い出したくないことがあるから過去はふりかえりたくないという方がいますが、思い出したくないことがあるということは何かを引きずっているということです。
過去の事実をひきずるのは、それが受け入れがたい、できればあれはなかったことにしたいと思っているからです。自分にとって不快な出来事だったり、自分の望みに反したりしているのでしょう。しかし、自分の過去の一部でも否定しているというのは、それらすべての過去の結果である現在の自分を否定していることにほかなりません。それでは現在を生きていることにならないのです。
二年前に受験に失敗したこと、五年前に失恋をしたこと、二十年前に家出をしたこと、三十年前に夫が浮気をしたこと、四十年前に両親が離婚したこと、人間はいろいろな過去の事実を否定しながら生きています。しかし、恐ろしいことですが、たとえ無意識でも、そのことを否定してしまうと、その結果をすべて否定することになりますので、その時点で人生が止まります。そこで精神的な成長が止まっている人も多いのです。そして、現在私が不幸なのはあれが原因だと言って一生を過ごしていくことになります。
内観をすると、そのような過去の事実とも対面していくことになるでしょうが、それを今までのような一方的なものの見方でなく、他のいろいろな角度から見ることにより、過去の事実として認め受け入れることが可能になります。そうなって初めて、本当の意味でそれを忘れることができるのです。そうすれば、思い出すことを恐れることもなくなるでしょう。
ですから、内観によって過去を見るということは、結局は過去の束縛から解放され、今を本当に生きることにつながるのです。



Q5 自分を知るのが怖い

自分を知るのが怖いという方がいます。これは内観をするのをちょっと躊躇する最も納得できる理由だと思います。確かに自分を知るのは怖いことです。しかし自分を知らないまま生きるのはもっと怖いことではないでしょうか。内観は、前にもお話ししましたように、自分が自分を見つめた結果自分がわかるものであって、人から指摘されてわかるものではありません。人から自己像を崩されるのではなくて、自分の中で新しい自己像ができあがった結果、もとの自己像が崩れていくのです。いわば、さなぎが内側から成長して殻を破って外に出るような状態であって、外から破られるわけではありません。それを怖いと言っていると、一生蝶になって大空を飛べないままになってしまうでしょう。事実は自分が見つめようが見つめまいが事実として存在するのですから、勇気を持って自分を見つめていただきたいと思います。



Q6 自分が変わるのが怖い

自分が変わるのが怖いという人がいますが、それは自分に自信がないということかもしれません。本当に自分に自信があれば、まだ弱点、欠点があるのではないか、どこを変えていったらいいかということを見つめていくことになると思います。自分が変わるのが怖いと言っていると、一生今の自分のまま、今の自分を守ったまま、過ごしていくことになりかねません。それはもっと怖いことではないでしょうか。一週間で変わるような部分は早く変えた方がいいかもしれません。



Q7 悩みがあるので内観どころではない

今の自分の悩みが大きいので過去なんかを調べている場合ではないという人がいますが、悩みで他のことを考えるどころではないというときは視野が非常に狭くなっています。前にも述べましたように、受験に失敗して自殺する人にとっては、合格か死かという選択しか考えつかないのです。そのようなときに、お母さんに何をしてもらった、お母さんに何をしてもらったというようなことをずっと調べていきますと、それらの結果としての自分が今ここに存在していることがわかります。自分の価値が非常に大きなものとなってくるのです。そしてそのような自分が今こういう問題をかかえているということになると、その問題は目の前の解決すべき一つの問題として見えてくるのであって、もはや合格か死かというようなせまい選択からは解放されていきます。自分が悩みの真っ只中にいると、目の前で桜の花が咲いて散ったのにも気付かなかったりしますが、内観をすることによってより広い視野から現在を見ることができるようになるわけです。ですから、悩みでそれどころでないというのは、まさに内観を必要としている時期だということになると思います。
そして、一度内観を体験していると、将来再び大きな問題に出合ったときにも、余裕を持ってそれに対処できるようになるでしょう。



Q8 自分は必要ないがあの人にやらせたい

内観の話を聞いて、とてもよいことを聞いた、自分はやる必要はないが是非あの人にやらせたいという人がいます。人にやらせたいというのもいいのですが、自分が自分を見つめて楽になるのが先ではないかと思います。自分は変わらずに相手を変えるために、あの人にやらせたいと思う場合も多いので、なぜあの人にやらせたいと思うのかを点検してみることも大事かもしれません。まず自分が体験してみてから相手にすすめる方が、相手の方に対しての説得力も増すでしょう。



Q9 内観をやりたくない相手がいる

お母さんに対して内観してもいいけれど、お父さんに対しては絶対にやりたくないという人が結構います。だけど、お父さんを嫌いだから、あるいは恨んでいるからやりたくないというのは、事実から逃げているわけです。自分が嫌いな人から世話になっていないとは限りません。散々世話になっているのに嫌っている場合もあります。相手を尊敬していたり、好きだったりすると、あまり迷惑をかけないように努力するのですが、相手を嫌いだとか軽蔑しているという状態ですと、話しかけられても返事の仕方からすでに、相手を傷つけていることもあり得ます。声をかけられても聞こえないふりをするなどということもあるかも知れません。ですから事実を見るということは、こちらがその人を好きか嫌いかという問題とは関係ないわけです。
あるとき、内観をやりたくないという理由として、こう言われた人がいました。「親父とは口をききません。金をくれと言うくらいです。だから、してもらったこともなければ迷惑をかけたこともありませんので、父への内観はやりたくありません」というのです。普段口をきかないで、金が欲しいときだけ金をくれと言って、もらっているわけです。そして、してもらったことはないと言う、すべてがそのようなものの見方になっている可能性がありますので、誰かを嫌いだとか恨んでいるというようなときは、やはり内観がかなり必要なのではないかと思います。
人を恨んでいて夜も眠れないという人がいますが、恨まれている人はぐっすり寝ているのです。だから、恨んでいる人が苦しんでいるわけです。二十年前のことを恨んでいても、相手が今あやまったとしても、それで心が晴れる問題でもないかもしれませんし、相手の方はすでにこの世にいないかも知れません。だから、その恨みから自分の心を解放するというのは、やはり自分自身がしなくてはならない問題なわけです。そのようなときに、その方からしてもらったことは何か、こっちも何か迷惑をかけているのではないかということを調べていくことによって、相手から傷つけられたと思っていることも含めて、過去の事実を過去の事実として受け入れやすくなるわけです。それで過去から解放されていくことになるのです。



Q10 内観はいつどこで誰によってつくられたのですか

内観の三つの質問は吉本伊信(1988年没)という方によって作り出されました。先生は世界中の人に幸せになって欲しいという願いで、三十年の年月を費やして、実際多くの方々の面接をしながら、その体験の中から現在の内観法を確立されました。吉本先生が内観を作り上げられたことによって、私たちは、人類長年の課題である「自分を知る」ための、誰にでもできる方法論を得ることができたのです。今内観は欧米にも広がりを見せ、ヨーロッパには四つの内観研修所が設立されて、毎年多くの方々が内観に取り組んでいます。
以上、よく訊かれる内観に対する質問にお答えさせていただきました。
  
posted by ゆき at 14:40 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

8. おわりに

以上、内観の意味とやり方について述べてきました。内観についてご説明することはこれ以上はあまりありません。内観というのは自分を見つめる「やり方」、いわば「道具」です。ですから道具の存在と使い方を知っても、それを使ってみなければ意味はありません。
現在、一週間の集中内観をすることができる研修所は日本全国に二十ヵ所以上あります。どうか一週間という時間を作って、集中内観に取り組んでみていただきたいと思います。内観で気づくことは人によって違いますので、内観をした結果どういうことがわかるかはやってみなければわかりません。しかし、ひとつだけ確実に言えることは、現在持っている悩みは、必ず解決する、あるいは解決の方向に向かって大きく一歩踏み出すであろうということです。
私がおすすめして内観を体験した五百人以上の人々の内観後、あるいは内観十年後、二十年後の姿を見ていると、本当にそのことを実感するのです。
悩みを抱えたまま、どうしようかどうしようかと言っているうちに、一週間という時間はすぐたってしまいます。しかし、内観にいけば一週間後には、悩みから解放されて新たなる一歩を歩き始めていることになるでしょう。三十年来の悩みが一週間で解決するという例も枚挙にいとまがありません。それでも内観に興味はあるけれど内観をする決断をつけることができないまま五年十年経っていくという人がかなりいます。そうやって五年後に決断して内観をすると、五年前にやっておけばこんなに長い間悩まなくてすんだのにと必ずおっしゃいます。ヨーロッパの内観研修所長はよく、内観をした人達から、何で内観を十年前にヨーロッパに導入してくれなかったんだ。十年前に内観をしていれば、こんなことで十年間も悩まなくてすんだのにと言われるそうです。
集中内観をするということは、一週間という時間を止めて、人生を別の角度からふりかえるということです。多くの人はこのような時間を持たないまま、先を急いでいきますが、そのような中で、自分を見つめる時間がとれるとすれば、それは大変な幸運だと思います。
もちろん一週間という時間をとることは決して容易ではありません。まわりの方々の協力もあおがなくてはならないでしょう。しかし一人の人が変わることは、まわりの人の幸せも左右します。
どうか自分のため、そしてまわりの方々のためにも、一度、人生の時間を止めて、自分をふりかえってみていただきたいと思います。
それが悩みの解決と幸せにつながることでしょう。
posted by ゆき at 14:39 | 吉本伊信による内観法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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